今回は、重度な薬物使用者に向けて行われる「ハームリダクション」について解説します。日本では薬物使用者に対して、スティグマ(「差別」「偏見」)が強く、薬物に対して厳しい姿勢を見せています。しかし、世界を見渡すと重度な薬物使用者に対して様々な対策やアプローチが存在していることがわかります。
今回の記事では、ハームリダクションの定義や歴史などをはじめ、さまざまな薬物(覚醒剤などの規制薬物・アルコール・たばこ)についての実践例についても紹介します。またギャンブルも依存症があることが広く知られており、その点においても解説をしています。
この記事は大麻にまつわる情報をまとめ、学習やリサーチを補助する目的で作成されています。日本国内では、THC・大麻は厳しく規制されています。
ハームリダクションとは?
ハームリダクション(Harm Reduction)は、直訳すると「害の低減」または「危害の軽減」を意味します。この概念は、物質使用や特定の行動をただちにやめることを求めず、それらの物質や行動が引き起こす様々な健康被害や社会的悪影響を最小限に抑えることを目的とした政策、プログラム、実践の総称です。
薬物使用者が自分の健康や安全を守りながら、自分のペースで生活を改善していけるようにサポートするのが目的です。この方法は、薬物使用に対する偏見を減らし、地域全体の健康を高めることを目指しています。
ハームリダクションの歴史
ハームリダクションの概念は、米国の薬物政策と深く関わりながら発展してきました。1980年代のHIV/AIDS危機を背景に、薬物使用者が感染リスクを減らすために注射器交換プログラムを導入することから始まりました。これは当初、法律の枠外で行われ、多くの活動家が逮捕や投獄のリスクを抱えていましたが、HIV/AIDSの深刻化に伴い、公的支援が少しずつ増えていきました。
1998年には、米国保健福祉長官がハームリダクションの効果を認め、安全で有効であると結論付けました。しかし、依然として注射器購入への連邦資金の使用は禁止されており、ハームリダクションプログラムの発展には制約があります。また、米国においても薬物使用者に対する道徳的批判や偏見が根強く、薬物使用を取り締まる政策が長らく続いています。こうした背景から、薬物政策や治療は今も禁欲主義的な傾向を残しています。
現在の国際的な薬物規制の枠組みは、1961年の「麻薬に関する単一条約」から始まりましたが、この50年間で厳罰政策が効果的でなく、むしろ様々な弊害をもたらしていることが明らかになりました。薬物政策国際委員会は2011年、50年に及ぶ厳罰政策の評価を行い、それが完全な失敗であり、政策の早急な見直しが必要だと結論づけており、ハームリダクションの重要性は今後世界中でますます高まっていくものだと考えられます。
ハームリダクションの実践例|たばこ・アルコール・規制薬物など
ハームリダクションは、薬物使用者のニーズに合わせて柔軟に変化する実践であり、画一的な定義やガイドラインはありません。しかし、いくつかの薬物については具体的なプログラム内容が研究され、成果が挙げられています。
覚醒剤等に対するハームリダクション
特に覚醒剤などの破壊的な薬物に関しては以下のような施策がとられています。
- 注射器交換プログラム
1980年代のHIV/AIDS危機をきっかけに始まったこのプログラムは、清潔な注射器を提供することで、HIVや肝炎などの感染症の予防を目指しています。当初は法律の枠外で行われていましたが、感染症対策として徐々に認められるようになりました。しかし、アメリカでは注射器購入のための連邦資金使用が今でも禁じられています。 - 過剰摂取防止プログラム
オピオイド(強力な鎮痛剤)の過剰摂取による命の危機を防ぐため、呼吸を回復させる薬「ナロキソン」を配布するプログラムです。2021年には、地域での利用を増やすために、3,000万ドルの助成金が支援として提供されました。ナロキソンの普及によって、過剰摂取による死亡率の大幅な低下が期待されています。 - フェンタニル検査ストリップの配布
違法薬物に混入されやすい危険な薬物「フェンタニル」が入っているかを確認するためのストリップ(検査用紙)を提供するプログラムです。近年、このフェンタニルの混入による過剰摂取が増加しており、この取り組みが注目されています。 - その他のサポート
他にも、以下のようなサービスが提供されることがあります。 HIVや肝炎の予防や検査、治療の紹介ワクチン接種や予防教育の提供安全な注射の指導や必要な物資の提供(消毒液など)フードや水の支給等。
たばこに対するハームリダクション
「たばこハームリダクション」は「たばことニコチンの使用を完全に排除することなく、害を最小限に抑え、死亡と疾病を減少させること」と定義されます。特に加熱式たばこやニコチン入り電子たばこが普及している国々では、この概念を用いたアプローチが議論されています。
たばこに対するハームリダクションの実践例には以下のようなものがあります。
- スウェーデンのスヌース利用:
1970年代以降、紙巻たばこからスヌース(かぎたばこ)への転換が進み、肺がんや心筋梗塞の罹患率が低下。発がん性はあるが、紙巻たばこよりリスクが低い可能性がある。 - 英国の電子たばこ活用:
国民保健サービス(NHS)が禁煙支援手段として電子たばこを認め、ニコチン代替療法より禁煙成功率が高いと報告。 - 米国のリスク改変たばこ製品(MRTP)制度:
FDAが特定の製品をリスク低減と認める制度。スヌースは口腔がん・心疾患などのリスク低減が承認され、電子たばこVuse Soloは公衆衛生上の利益があると認められた。
スヌースとは:
無煙たばこ – JT
鼻や口に直接たばこを含み、たばこの味・香りを楽しむ煙の出ないたばこです。大きく分けて「嗅ぎたばこ」と「噛みたばこ」の2種類があります。
また、たばこハームリダクションを公衆衛生施策として実施するためには、以下の要件を満たす必要があるとされています。
- リスク低減:代替たばこ製品(新型たばこ)の健康リスクが、従来型たばこ製品(紙巻きたばこ)よりも低いこと
- 禁煙の効果:代替たばこ製品の使用により、従来型たばこ製品を完全にやめる(スイッチする)ことができること
- 新たな公衆衛生上の懸念がないこと:代替たばこ製品によって新たな公衆衛生上の懸念が生じない、あるいはその懸念が小さいこと
- 保健当局の規制権限:保健当局がたばこ産業から独立してたばこ規制ができること
しかし、これらの要件を満たす科学的証拠は、特に加熱式たばこについては十分に蓄積されていないのが現状です。
アルコール問題に対するハームリダクション
アルコール依存症に対するハームリダクションは、飲酒行動の完全な中止ではなく、飲酒による健康被害や社会的問題を軽減することを目指します。
基本思想は「飲酒問題を起こさないようにする」「やめさせることよりも、治療につながり続けることが大切」というものです。血液検査の肝臓の数値を指標にしたり、対象者が大量飲酒できなくなる環境を作るなどの「節酒」ハームリダクションが実施されています。
様々なハームリダクションに基づくプログラムが実施されており、その有効性や有用性が研究によって明らかにされています。海外における具体的な実践例としては、以下のようなものがあります:
- 年齢層に応じた予防プログラム(10歳前後や大学生のハイリスク飲酒に対して)
- 適度な飲酒を目標とするグループ活動
- 医療機関での早期介入
- 社会的弱者を対象としたプログラム
ギャンブルに対するハームリダクション
ギャンブルに関連するハームリダクションは、ギャンブル行動によって生じる悪影響を減らすことを目指します。具体的な取り組みとしては以下のようなものがあります。
- 電子ゲーム機の稼働時間の短縮(供給削減介入)
- 賭け金の上限設定(例:最大掛け金が1ドルに設定されたマシン)
- 若年齢層に対する予防教育
- 自己制限・自己排除プログラム
- ギャンブル機器からのフィードバック提供
これらの取り組みは、ギャンブルによる損失の減少、プレイ時間の減少、さらには関連する問題(アルコールやたばこの摂取)の減少につながることが報告されています。一方で、どの方法が効果を持つかについては、研究の質と信頼性によって結論が制限されています。
日本におけるハームリダクションの現状と課題
現在、日本の薬物政策は「ダメ。ゼッタイ。」というスローガンに代表されるように、「不寛容・厳罰主義」を基本としています。この姿勢は、国内の違法薬物使用者数が比較的少ないという実情を背景に長年維持されてきましたが、厳罰だけでは薬物問題の根本的な解決には至らないという限界も認識され始めています。
こうした状況にもかかわらず、日本社会ではハームリダクションに対する誤解が根強く残っています。「単なる寛容政策」「取り締まりを諦めた海外の国が仕方なく採用する策」といった見方や、「アルコール依存症における節酒目標」といった局所的な理解にとどまる傾向があります。薬物使用をやめられない、あるいはやめる意思のない人々の健康と尊厳を守るという、公衆衛生に基づいた科学的なアプローチであるという本質的な理念は、十分に浸透していません。
今後の課題としては、まず厳罰主義がもたらす「犯罪者」という強いスティグマや、医療機関における差別的な扱い、警察への通報といった不安が、薬物使用者が支援や治療にアクセスすることを大きく妨げている現状を改善する必要があると専門家の間では話されています。
ハームリダクションを単なる「甘やかし」ではなく、現実的な公衆衛生戦略として正しく理解し、社会的なコンセンサスを形成していくことが求められます。その第一歩として、当事者が守秘義務を信頼でき、差別や拒絶を恐れることなく安心して相談や治療を受けられる環境を整備することが、日本におけるハームリダクション実現に向けた重要な鍵となるでしょう。
ハームリダクション東京について
近年、日本でもハームリダクションの考え方を取り入れた取り組みが少しずつ始まっています。以下に、日本で積極的に活動されている「ハームリダクション東京」について紹介させていただきます。
ハームリダクション東京は、クスリ・ドラッグ・薬物を使用することがある人々の健康と生活をサポートする団体です。2021年6月に設立され、日本薬物政策アドボカシーネットワーク(NYAN)のプロジェクトとして活動しています。
ハームリダクション東京の主な活動
OKチャット(オンラインチャットサービス)
薬物に関する悩みを安心して話せるチャットを提供。
- LINE・テレグラム・Twitter など複数のプラットフォーム対応
- 「なんでもOK」「OD」「大麻」「Teens」「Women」「LGBTQ」などのチャンネルを用意
- 全国どこからでも利用可能
健康・生活サポート
- 薬物使用に伴うリスク軽減情報や安全な使用方法を提供
- 住居・医療・暴力など生活上の困難への支援
その他の活動:
2023年に『ハームリダクション東京マガジン』を創刊し、活動報告や薬物使用に関する情報を発信。
詳しい情報は以下のHPをご参照ください。
▶︎ ハームリダクション東京 HP
まとめ
ハームリダクションは0か100かではなく、段階的なアプローチを採用した薬物使用に関連した医療プログラム・行為です。薬物に関しての科学的・社会的な知見が蓄積している現代ではどのような方策がよりよい効果をあげるのでしょうか。議論を重ねていくことが重要だと考えます。
参考文献
- Harm Reduction History and Context_Jan2022
- Harm Reduction | National Institute on Drug Abuse (NIDA)
- Harm Reduction | SAMHSA
- アルコール問題に対するハームリダクションアプローチ (J-STAGE)
- War on Drugs: Report of the Global Commission on Drug Policy (June 2011)
- 「Fifty Years of the 1961 Single Convention on Narcotic Drugs」 – TNI(Transnational Institute)
- McMahon, N., Thomson, K., Kaner, E., & Bambra, C. (2019). Effects of prevention and harm reduction interventions on gambling behaviours and gambling related harm: An Umbrella Review. Addictive Behaviors, 90, 380–388.
- 日本公衆衛生学会. (2024b, March 19). 「たばこハームリダクション」は可能か?:国際的動向と日本での論点. 日本公衆衛生雑誌.
- 薬物政策のあり方について――わが国に必要なハームリダクションとは
- シンポジウム「日本におけるハームリダクションを考える」レポートVol. 2